馬の気持ちはわからない(一口馬主遺産)

『馬の気持ちはわからない(『傍観罪で終身刑』改メ)』(http://d.hatena.ne.jp/Southend/)の移転先にして遺跡です

生きて死ぬ知恵

http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2007/08/post_526.html

「物事全てには原因があって、勉強すれば、気合入れればそれはいつか解決できるよ」 という科学の考えかたというのは、亡くなった人と、その周囲にいた人達全てを巻き込んで、 「努力不足の落伍者」というレッテルを貼る。

理不尽さの引き受け手としては、科学という実装は、相当にセンスが悪い。

はてなブックマークの「お気に入り」(任意の他者のブックマークした記事)経由で読んだ記事が興味深かったのでちょっと触れてみます。
 えー、僕の把握だと“科学の考えかた”というのは、引用した部分に対照する形で言うと「物事には全てエビデンスがあって、その認識があれば<できること>と<できないこと>が明確になるよ」というようなことかと思ってます。
 で、原文の終末期医療の例で言うなら、精神的には「人は必ず死ぬ」という認識を与えるところまでが科学の「役割」で、肉体的に「10年間の寝たきり状態」や「最後の2週間」という選択権を作り出したことは、むしろ科学という概念の本質的な意味を考えれば「功績」と呼ぶべきなのではないかと。それを享受する側の人間の精神が科学を曲解して(あるいは科学に甘えて)勝手に“理不尽さの引き受け手”として設定し、結果救われない思いを抱くのは、全くもって科学の責任ではない気がします。

先送りするにもお金が要って、それは後になるほどかさむ

▼医療費云々の問題については科学ではなく経済の範疇(そこまで含めて科学なのかもしれませんけど)でしょうし、あえて付け加えるなら、「経済的問題はいずれ科学が解決するかもしれない」という可能性さえ考慮しといたほうがいいんじゃないかな、と。現在の終末期医療問題は、現代医学の発展過程における一局面であるかもしれず、その点をもって一種の「科学の限界」のエビデンスとするには不十分ではないでしょうか。
 いや、もちろんいつまで経っても今のような状況が続くのかもしれませんけど。


▼というわけで、結論へ持っていくまでの論旨展開はちと違和感があるにしても、

科学と宗教というのは、恐らくは対立する考えかたなんかではなくて、 そもそも存在するレイヤが異なるんだと思う。

 という部分については完全に同意。科学者の一部(ドー○ンスとか)が宗教というか超自然的なるものをあれほどムキになって駁撃するのは、科学と宗教を同じレイヤにあるものと想定して、科学の領域を無作法に侵食しようとする向きに対する苛立ちなのかも、とか思ったり。
 にしても、例えば臓器提供技術なんていう側面を見ただけでも、科学が死にまつわる精神の安寧に資する状況というのは十分ありえるところでしょう。あれを一種の輪廻転生として把握することは僕には難しいところですが、とりあえず「科学と宗教」はともかく、「科学と理不尽さ」は十分近しい位相を与えられるんじゃないかな、とは思います。
 というわけで、「いずれ無に帰す」という認識と、「いずれ天国に行ける」という認識のいずれがよりその人の人生を豊かにするかは個人の資質に帰する部分ではありましょうし、その選択権はあってしかるべきでしょう。ただ、お互いが相手への反駁に血道をあげるがごときは間違いなく“理不尽”なことであろう、というのもまたあり。科学も宗教も使いようであり、人間が科学や宗教に期待しすぎたり、ましてや使役されるなんてのは本末転倒だよな、というのが個人的な感想です。
 なんか、原文の意図と大分ずれた気もしますけど、とりあえずそんなところで。


<追記>
▼トラバ送った後に何を思ったか見出し記法の書き換えをしてしまって、慌てて戻したんですが今度は折角いただいたコメントが・・・・・・(汗)。

こちらに残っているようですので、付記しておきます。ホンマリテラシ低くてすいません。