馬の気持ちはわからない(一口馬主遺産)

『馬の気持ちはわからない(『傍観罪で終身刑』改メ)』(http://d.hatena.ne.jp/Southend/)の移転先にして遺跡です

知恵と勇気だけが友達さ

要は、勇気がないんでしょ? - Attribute=51

なんかさ、さっきからわかったような理屈言ってるけどさ、要は、勇気がないんでしょ?


http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080316/1205683547

少しは頭使いなさいよね!


▼マッチョ・ウィンプ論争にもつながる興味深い議論ではありますが、議論への参加を放棄して傍観者的視点から見れば、「どっちかだけじゃどうにもならないだろう」、という感想に尽きます。勇気がなければ状況は変えられないし、知恵がなければ変わった状況に流されてしまう。必要なのは「知恵か勇気か」じゃなくて「知恵と勇気」だろう、と(さらに身も蓋もないことを言えば、「運」が一番大事なのかもしれませんが)。

ごく単純なたとえをするなら、学校よりはよほど複雑な大人の世界を舞台にした大人向けのマンガ――『専務 島耕作』において少年マンガイデオロギー的な「若さ」がそのまま通用するのか? ということである。

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080316/1205683547

▼このたとえ話の筋で自分が連想したのは、「大人の世界を舞台にした少年マンガ」である『機動警察パトレイバー』。そう、まさに「知恵と勇気」(参考:知恵と勇気 パトレイバー - Google 検索)。あれは泉野明という「勇気」と、篠原遊馬という「知恵」の、それぞれ体現者(その二要素だけではありませんが)による対立→止揚、という物語構造を持っています。「大人の世界」で「勝つ(あるいは負けない)」ためには、勇気と知恵のどっちかだけではダメなんだ、というメッセージを、若かりし頃の自分(もう20周年か・・・・・・)は勝手に読み取ったものです*1


▼こうした二項の対立構造というのは、問題を単純化して分かりやすくする効果がありますが、いざ議論に入るとなると、いずれもアラが多く見えて単なる相互攻撃や揚げ足取りになるケースが多いように思います。まぁ元々極論というのはそういうものだ、という話ではあるんですが、それ以上に、こういうのはしばしばポジショントークになっちゃう、というのもひとつの要因としてある気がします。「自分は勇気側」「じゃあ俺は知恵側だ」みたいな棲み分けがなんとなくできてしまう。実際は、どっちかしか持ってない人というのはなかなかいないでしょうし、両方ふんだんに持ってる人だって沢山いるはずなんですけどね。両方乏しいという人も・・・・・・まぁ、いないとは言えませんし。なので、思考実験、あるいは自己啓発のための寓話としては面白いんですが、結論を出そうとしたり、現実問題に適用しようとし始めると、不毛な結果になることが多いように思います。


▼こういう「どっちもどっち」みたいな言説は、常に後出しであるという宿命も含め、概ね軽視されることが多いですし、実際「議論」としては「何も言ってないのと同じ」という判断もできるでしょう。でも、「大人になる」っていうのは、そうしたふたつの、あるいは色々な要素の間でバランスを取れるようになることじゃないのかな、と、いい年してまだ大人になりきれない自分なんかは思ったりしてます。どっちのエントリも、書き手の能力なのか文章としての訴求力が非常に強いだけに、どうしても影響というか、扇動されてしまうきらいはあるんですが、そこはぐっと堪えて。
 えー、以上。

*1:余談ですが、あれは「正義と悪」という対立構造も、バドリナート・ハルチャンドという「悪意なき犯罪者」の描写、そして内海という「悪の親玉」(趣味、あるいは演技としての要素も強かったとはいえ)が「正義」の警察ではなく「悪」側の人間によって終止符を打たれることで無効化されていています。「悪は滅びる」という少年マンガ的ラインは守りつつ、それは別に「正義の方が強かったから」ではない、と。そうしてみると、「二元論の否定」というのはあの作品に通底する大きなテーマだったように思います。