馬の気持ちはわからない(一口馬主遺産)

『馬の気持ちはわからない(『傍観罪で終身刑』改メ)』(http://d.hatena.ne.jp/Southend/)の移転先にして遺跡です

交換日記かここは

おとぎ話 - 血統の森+はてな
▼そういや最近流れ的に、生産者サイドばっかあげつらってるなぁと思ってたとこでしたが、じゃあ主催者側の方はどうなのよ、とは誰しも思うところでしょう。特に地方。斜陽の美というか判官贔屓というか、犠牲者としての地方競馬という幻影がマスコミやらネット界隈やらを彷徨いがちな昨今ではありますが、公営競技としての大前提が「自治体の財源確保」で、それを根拠に存在が許されているわけですから、赤字=死という構図は受け入れて然るべきというのはひとつの正論としてあるかと(実効性はともかく)。まぁとにかくそういう、放っておけば地方競馬崩壊がほぼ既定路線という現状をどう把握したものかな、と考えていたんですが、このエントリはなんとも良いとっかかり。

もしくは地方競馬崩壊から始まるJRA崩壊へのシナリオを、根拠を持って描くことができればそれはそれでインパクトがあるかも。もっとも、地方が崩壊すれば中央も崩壊するのかどうか、その可能性も怪しいですが、競馬場数が減る→騎手・調教師等が減る→転出馬による流入で馬の出場機会が減る→馬主が資金回収できなくなり馬主が減る→購買力低下で生産頭数も減る→馬産地崩壊により内国馬の質が低くなる…というような負のスパイラルが、中央の二軍的存在(言葉は悪いですが)であり、土台でもある地方競馬を発端として中央までしわ寄せがくる、というのは十分あり得るかと。縮小再生産ってやつですね。

お、地方競馬というのは中央競馬の土台だったのか。てっきり現在の地方競馬の中央とは比べ物にならないぐらいの凋落は、中央と地方、もしくは地方の各主催者団体同士の絶望的なまでのデタッチメントに由来するものだと思ってましたが。換言すれば、絶望的なまでの「競馬ムラ社会構造」が諸悪の根源なんじゃねーの、と(開催者側に限らずの話ではありますが)。で、個人的にはそれを解消する唯一の方法が「中央集権化」で、二軍というか、やきうで喩えるなら府中や淀が甲子園で、ローカル競馬場は地方大会、という全国的なピラミッド構造を明確に構成しなおすしか、地方競馬が致命的な流血に至らず組織的な形で生き残る術はないんじゃないかと思ってたりするんですが。単純に中央集権化してしまえば、バラバラなムラムラを縦割りにまとめられる一方、共同体化することでフラット化(ここでは主に「格差の縮小」という意味)さえも同時に達成できて万々歳なわけですから。まぁ実現性を考慮してない空論なので意味ないっちゃそれまでの話なんですが。
 あと、JBBAの生産頭数統計を当たっただけの感想ですが、バブル景気真っ最中かつシービー・ルドルフ→オグリという流れの競馬ブームが来ていた1980年代後半と、地方競馬がバタバタ倒れ中央の売り上げも全盛期には及ぶべくもない今とで、サラ系の生産頭数がほとんど変わってないというのは、これはもう供給過剰以外のなにものでもないような。内国産馬の質が低下する(している)とすれば、それはむしろ本来淘汰されるべきレベルの生産者が今でも生産を続けてしまっていることによる希釈効果みたいなものが原因なんじゃないか、と。じゃあどれぐらいが適正なんだ、という話になるとアレですが、個人的には5〜6000頭あたりなんじゃないの、と感覚的に思います。この辺のデータを見ても、畜産国のアメリカやオーストラリア、そしてアイルランドは別格として、イギリスやフランスと同レベルというのは悪い水準じゃないんではと。

とまあ、沈黙の春byレイチェル・カーソンみたいなものがあってもいいんじゃないですかね、とかなんとか。

▼今風に言えば『不都合な真実』ですか。まぁ環境ホルモン説界隈がそうであったように、ゴアのアジテーションに踊らされた人たちもいずれ恥をかくことになるのかもしれないなぁ、とかつぶやいてみる。
<参考>
沈黙の春 - Wikipedia

レイチェル・カーソンのこの著作は、社会的に大きな影響を与えているものの、科学的な根拠については疑わしいという批判もある。

▼おお、OperaでもWikipediaにすんなりリンクが貼れる・・・・・・ありがとうmomdo先生。