馬の気持ちはわからない(一口馬主遺産)

『馬の気持ちはわからない(『傍観罪で終身刑』改メ)』(http://d.hatena.ne.jp/Southend/)の移転先にして遺跡です

Ambient Dependability

一つ疑問なんだが、、、

やばい!って思ったエントリーを削除するのっていたって普通の行為じゃないの?

削除する・しないの判断基準は人それぞれだろうけど、、、

削除しやがってとか、削除してんじゃねーよ。
っていうのは、おかしくね?

ま、わちきの場合は痛すぎるから削除したっていうのはままある。

キルトクールブログのひろく〜んクリップより。確かに、記事の削除という行為自体をあげつらうのは筋違いという気がします。はてダの編集画面にだって、「この日を削除」というボタンがちゃんとありますしね。それを行使するのは、いたって普通の所作でしょう。
 ただ、記事の削除という行為が何の影響ももたらさないか、というと、これはまた別の話。ブログというのは、備忘録代わりに使っているような場合を除き、当然読み手がいて、その読み手に対して書き手が何かを表明・伝達したいという前提に立って書かれているものでしょう。まずその点を押さえた上で、翻って記事の削除という行為が読み手にもたらす影響を考えてみると、これは結局のところ、「書き手への信頼感の失効」というところに行き着くのではないかと。
 もし書き手が自分の書いたものを「やばいと思って」削除するようなメンタリティの持ち主である、あるいは、書き手が「やばくなったら(例えばコメ欄が炎上しちゃったりしたら)削除すればいいや」という程度の意識で記事を書いている、ということが読み手に知れれば、これは確実に悪影響があります。なぜなら、書き手が自分の記事を無通告で削除するようなブログ、つまり書き手が自分の書いたことの信頼性を全く担保できないようなブログであるのなら、誰もその主張をまともに受け止めようとはしなくなるでしょうから。換言すれば、記事を削除するということは、とりもなおさずそのブログ(と書き手)の信頼性をも同時に削除することになるのだ、ということです。
 とまぁ断言調に書いてますが、少なくとも僕はそう捉えます、ということで。ただ、経緯や内容にもよるでしょうけど、ある程度の信頼を抱いていたブログがいきなりそんな行為に及べば、読み手としてはそれを非難したくなるのは自然な流れなのではないでしょうか。



▼もちろんこれは、書き手への信頼感を前提にして成立しているような内容のブログにのみ適用されることで、例えば

  • (嘘・大袈裟・紛らわしい、をウリにした)ネタブログ
  • 面白ければそれでいいやというお笑いブログ
  • 書き手がいい加減なヤツだという共通認識に基づいて書かれているブログ
  • 読み手がほとんどいない、あるいは知り合いばっかりのブログ

のように、読み手に対して書き手側の信頼性を担保する必要が元々無いのであれば、読み手に対する影響も(少)ないでしょうし、何か言われたところで「わちきはそういうヤツなのよ〜」で済む話でしょうから、マズいと思った記事はどんどん削除すればいいんじゃないかと思います。いや、これは皮肉でも非難でもなんでもなくて、まさにブログの(というかネット上の)コミュニケーションというのはそういうものでしょう、という単なる一般論です。まぁ、ある種の対外的責任をもって起こしたエントリを削除するとなると、話はまた別になりますが、そういう分別がつかないようなブロガーは、多くの読者を集めて楽しませることなんて元々できないでしょう(ヲチ対象として以外は)。



▼というわけで、先日の水上学氏の記事削除については、彼の背景(ライター)を考えると、いくらネット上のこととはいえ非難されてしかるべきかなぁ、とは思います。個人的には、別に「削除しやがって!」とかは全然思いませんが。ああ、この人はこういう人なんだなぁと納得しただけで。というか、あの削除は、自身以上に引用元である河村氏(のブログ)の信頼性をこそ手酷く否定した行為なんじゃないかという気もしますがいかがでしょうか。
 「そんな(あのへんが信用できないって)こと、前々から分かってたことでしょ?」という向きも多かろうとは思いますが(Brain Squallの中の人とか)、僕としてはどこかまだネームバリューみたいなものに踊らされていた部分があったようで、今回の顛末にはひどくがっかりさせられた(つまりまだある程度信用していた)次第。今後彼らの言うこと・書くことについては、一定の枷を嵌めて受け止める必要性を、少なくとも僕は感じているわけで、これは十分記事削除の悪影響なんじゃないかなぁ、と。このネタ引っ張るのもいい加減しつこいなと、自分でも思いますが・・・・・・。