馬の気持ちはわからない(一口馬主遺産)

『馬の気持ちはわからない(『傍観罪で終身刑』改メ)』(http://d.hatena.ne.jp/Southend/)の移転先にして遺跡です

“甘い”以前の問題だったようで

岩手競馬一転存続へ 臨時県議会 : 岩手日報 - 昨日の風はどんなのだっけ?

僕もやる気のない競馬主催者は、退場して貰った方が日本競馬の為じゃないかと思ったことはあるし、そういうことを少し書いたこともあるけど、地方競馬を叩くのと、地方競馬の中の人を叩くのは別として考えても良いんじゃないでしょうか?

地方競馬と地方競馬主催者 - 黒船雷電

 「地方競馬」と「地方競馬主催者」という、指すものが全く違う2つの言葉が、ごっちゃになって使われている気がします。

▼うーん、自分の言いたいニュアンスがあの書き方でも伝わる、と思ったのは間違いでした、というか甘かったです。

第1条 日本中央競馬会又は都道府県は、この法律により、競馬を行なうことができる。
2 次の各号のいずれかに該当する市町村(特別区を含む。以下同じ。)でその財政上の特別の必要を考慮して総務大臣農林水産大臣と協議して指定するもの(以下「指定市町村」という。)は、その指定のあつた日から、その特別の必要がやむ時期としてその指定に付した期限が到来する日までの間に限り、この法律により、競馬を行うことができる。
1.著しく災害を受けた市町村
2.その区域内に地方競馬場が存在する市町村
《改正》平11法160
(中略)
5 日本中央競馬会が行う競馬は、中央競馬といい、都道府県又は指定市町村が行う競馬は、地方競馬という。
6 日本中央競馬会都道府県又は指定市町村以外の者は、勝馬投票券その他これに類似するものを発売して、競馬を行つてはならない。

競馬法

お分かりでしょうか。「地方競馬」と「地方競馬主催者」は、現行の競馬法では誤解しようのないほど不可分なものであることが。っていうか、まさか地方競馬を語る人がそういう認識なくして論じているとは想像の外でした。これでも誤解を招くかもしれないので換言すると、「地方競馬という代物の運営主体が、競馬の“プロ”となることは法律上ありえない」ということです。
 もちろん、識者を「外部から」(ここ重要)招聘して運営企画に携わらせることぐらいは可能でしょう。しかし、地方競馬の「主体」(ここ重要)が地方自治体以外のものになることは現状ありえず、そして主体たる自治体の設けた運営団体が、競馬を愛し、真摯に取り組む人たち・・・・・・という言い方がクサければ「競馬に関わるものを幸せにし、自らも競馬で食っていく覚悟のある」人たちの集合になる、という状況は想像を絶するところです。よって、「地方競馬」がドメスティックな「地方政治的」スタンスから完全に脱却し、ドラスティックな改革を遂げるという未来図は、非常に描きにくいと言わざるをえません。まぁ、何か具体的かつ直接的な意図と意欲があるらしい須田さんのような人もいるでしょうし、

2005年11月25日に特殊法人等改革推進本部参与会議は地方競馬全国協会を解体し、各地方競馬が出資する共同法人組織として運営を一元化する改革案を示した。

地方競馬全国協会 - Wikipedia

と「地方競馬」という概念のグランドデザインの描き直しという動きがないわけではなく、その辺には(遅きに失した感はありますが)大きな意味での競馬ファンとして期待しなくもありません。ただ、正直言って個としての地方競馬に幻想を抱く段階はとうに過ぎている、というのが自分の認識です。


名古屋や園田以外の地方競馬が廃止されれば、競馬をめったにライブで見られなくなる人が大勢出ます。私は福島県民なのでそこらへんはあまり関係ないのですが、そういう人達の「そこに馬が走っている幸せ」は守られてほしいと思っているので、地方競馬にはできるだけ生き残っていて欲しい。

地方競馬と地方競馬主催者 - 黒船雷電

▼ですから、“地元のコアなファンは除くとしても”という但し書きは一応付けたわけで、それは僕としてもそういうファンに対する「同情」は禁じえないところだったからです。まぁ、その中には「彼らの馬券代の一部(多く?)が地元の利権受益者の甘い汁に化けた」ことへの同情、というシニカルなニュアンスもなくはないですが、これは同じ穴の狢という感もあり、お前が言うなという話かもしれません。


地方競馬にとって経営者はあくまで政治家と役人であり、労働者はすなわち現場の人で、いつもそちらが切り捨てられる側というのは普遍にして不変の構図です。負債数十億円レベルの倒産なんてこの国においては珍しいものでもないわけで、そこに感傷以外の何かを投げかけることなんてできましょうか。少なくとも僕にはできないです。

「岩手、イラネ。」は果たして痛手か? - 馬の気持ちはわからない(『傍観罪で終身刑』改メ)

▼というわけで、「地方競馬」への擁護はありえないとしながらも、調教師・厩務員・騎手といった「現場の人」への感傷は否定するものではないのは既に書いたとおり。また、“地方競馬の中の人”(おそらく「現場の人」のことを指していると思われます)を叩いた覚えもビタイチありません。ただ、

そして、「競馬の現場の人」への同情論にも、僕は与することはできません。いや、したくない、といった方が正確でしょうか。なぜなら、そこに意味があるとは思えないから。競馬がアジールである理由はどこにもないと思うから。

「岩手、イラネ。」は果たして痛手か? - 馬の気持ちはわからない(『傍観罪で終身刑』改メ)

というのも本音です。理由を説明するのもアホらしいんですが、内田利雄騎手・御神本訓史騎手・法理勝弘調教師、アンカツ&アンミツ・川原正一騎手(まだ笠松はなくなってませんが)、サークル内に限らなければ、茂呂菊次郎元騎手(参考:名手が強い馬を育てる 「協和牧場鹿児島分場」 - 座布団が行司にクリーンヒットや赤見千尋元騎手など、競馬界に留まる価値(能力だけではなく、若さや意欲も含め)のある人間さえ受け入れられないほどには、まだこの世界は疲弊しきってはいません。そういう人たちに同情するのは無意味である以前に失礼であり、また、そうでない人たちへの同情というのは、するなとは言いませんがしたくない、というのが自分のスタンスです。何かおかしいことを書いているでしょうか。それほど冷たいことを書いているでしょうか。



▼別に同情論者に意見を変えろとは言いません(ああいうエントリに触発された以上、一定以上の心当たりがあってのことだとは思いますので、一応)。ただ、これ以上自分の言葉で語っても無為かという気がしてきましたので、以下の文章を引用することで、このエントリを終わることとします。

政治、たとえば外交一つとっても、日本人は、どうも理屈を捏ねなさすぎるように僕には思える。僕の知っている外国人はもっと理屈屋ばかりだった。コミュニケーションによって相手を説得するツールは理論であり理屈だ、と彼等は考えている。日本人は、情だとか、気持ちだとか、これまでの経緯だとか、あるいは誠意といったわけのわからない単語で片づけようとする。充分な理屈を持ったうえで、こういったものが付加される方が見栄えが良いだろう。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/03/16/index.php