馬の気持ちはわからない(一口馬主遺産)

『馬の気持ちはわからない(『傍観罪で終身刑』改メ)』(http://d.hatena.ne.jp/Southend/)の移転先にして遺跡です

信じることと疑うこと/言葉と暴力

▼なんだかんだ言って、より大きく、そして多くの人の心を動かしうるのは、客観的で懐疑的な独白ではなく、主観的で過剰な演説であることは明白だ。僕には多分できないことだし、それは羨望と言っても差し支えない認識だろう。

「雄弁はどんなものでも燃料にする火である」ポール・クローデル


 そのルサンチマンが取らせる姿勢なのかもしれないが、発言者の声が大きければ大きいほど、僕はその主張を疑ってかかる癖がある。肺と声帯の活動に奪われる分、脳に回る酸素とエネルギーは反比例して乏しいはずだろう。

「雄弁家が話しながら考えたことは決してない。聴衆が聞きながら考えたことも決してない」アラン


 使命感に溢れた正論の裏に、濁ったエゴが見え隠れしていないか? 逆に、口汚い罵詈雑言の陰に、真実の尻尾が揺れていないか? 耳触りの良さに、聞こえの悪さに、惑わされてはならない。大事なのは、その下にあるなにかだ。

「嘘と信じやすさとが一緒になって世論を生む」ポール・ヴァレリー


 物事の理非をはかるにあたっての僕のスタンスはシンプルだ。「疑え・疑え・疑え」。疑い抜いて、それでもなお疑いきれなかったものが、<もしかしたら>信じるに足るもの<かもしれない>。狭量だろうか? だが、鈍感であるよりはまだ<マシ>ではないか?

「楽観主義は人類の阿片である」ミラン・クンデラ


 ただ、それで信じられるものができたとしても、いざ実際に判断し行動する際に、その信念に殉ずる必要なんて全く無い。結局のところ、形而下的にはなにが<正しいか>なんてどうでもいいのだ。問題は、なにが<マシ>か、だ。そもそも、絶対的な<正しさ>など実在するのか? いや、仮にあったとしよう。ならば、素朴にそれを信じることが最も安易な生き方であろう。しかし、もしそうだとしても、その<正義を強要すること>は、すなわち<正義に反すること>ではないのか? 疑え・疑え・疑え。

「安易さとは、決して使わないという条件で自然が与えてくれるもっとも美しい贈り物だ」セバスチャン・シャンフォール


ブロゴスフィアが殺伐としているなんて、誰が言ったんだろう? 本来そこは、外見的差別・暴力・肉欲・その他あらゆるフィジカルな理不尽さから開放された、言語と思考のユートピアだ。そこで僕らにできることは、言葉を発し、交わす、ただそれだけ。これほど平和的な領域が他のどこにあるだろうか? ある作家の表現を借りれば、そこには「対話の余地しか無い」のだ。銃も、病原菌も、鉄も、無い。

「銃の前では這いつくばらなければならない。なぜなら臆病者だけが生き残れるのだから」(ヴォランスキー)


 であるならば、その理想郷で最も厭うべき行為は、姿勢はなにか。現実世界のしがらみを持ち込むこと? もちろんそういう考え方もある。しかし、それを目的としてこの世界にやってくる人も多いし、そのこと自体は特別あげつらうようなものでもないだろう。敢えて言うなら、<無粋>という表現はできるかもしれないけれど。

「偶像に触れてはならない。金箔が指につくから」ギュスターヴ・フローベール


 では、心無い誹謗・中傷・悪態がそうだろうか? 確かに言葉しかない世界において、それはいかにも品が無く暴力的だ。しかし、フィジカルな暴力とは異なる点がある。それは、殴られる時に目をつぶっても痛みは消えないが、悪意ある言葉に出会った時に目をつぶれば(あるいはモニタの電源を切るか、画面のある場所をクリックすれば)、少なくともそれによる痛みは(鋭い反射神経や格闘技の素養がなくとも)概ね回避できるということだ。それが救いになるかどうかは人それぞれかもしれないが、もし強い意志と認識さえあれば、言葉の暴力は暴力たりえない。もう少しかいつまんで言えば、本質的には暴言は「暴言である」という以上の意味を持たない。ただ、もちろん<程度の問題>という課題は残るし(雨粒は時に心地良くさえあるが、<嵐>となればそうも言っていられない)、第一そういう下劣さを容認できるかどうかという点については、また別問題だと言わざるをえないけれど。

「議論において、悪態は間違っているものの理屈である」(セバスチャン・シャンフォール


 となると、この優しい世界において本当に忌むべきは、一体なんだろうか? もしかしたらそれは、「<対話の余地は無い>と表明すること」ではないか。勘違いしてはいけない、「対話しないこと」自体が悪いのではない。それは個々の自由であり、権利だ。ただ、他の誰かの言葉/思考に一方的に触れておいて、「それは自分の考え方とは異なるし、どんなことがあっても相容れない」と宣言することほど、この純粋に言語的な世界において、殺伐とした、暴力的な行為があるだろうか? もし自分の思考や認識の無謬性を疑わないのであれば、それを言葉にする必要が一体どこにあるというのだろうか?

「自分が正しいと確信しているなら、間違っている人々と議論する必要はない」(ヴォランスキー)


 もうひとつある。それは、言葉/思考の主体を、恣意的に匿名化することだ。<誰かの意見>の集積というものはあったとしても、それは決して<みんなの意見>なんて代物ではない。そんなものは実在しない。「誰かがあんなことを言っていた」「どこかでこんな言葉を耳にした」「最近そんな意見が幅を利かせている」そういう主体をぼかした物言いをすることは自由だ。ただしそれをしていいのは、「そういう言葉や意見を持った全ての個人との対話」を引き受ける覚悟がある人間だけだ、と僕は思う。「いや、それは君のことを指して言ったわけではない」だって? そんなことは知らない。「そういえば確かに私は、いつかどこかでそんなことを言った」。ならば、「その“誰か”とは“私”のことだ」。これは言いがかりだろうか? そうかもしれない。しかし、「最初に言いがかりをつけたのは貴方なのだ」。言葉はその名の通り<葉>である。ならばそこには<枝>が、<幹>が、<根>が繋がっているはずと考えるのは、最低限の想像力ではないか? むしり取られた葉は、死ぬしかない。それは、対話の拒絶の一形態でしかない。

「聴衆とは話を聞いている人々ではなく、自分の話す番を待っている人々である」アルフォンス・カール


 念のため、以上は誰のためでもない、自分のための警句であることをお断りしておく。

「私は泳げるけれども、それはちょうど他人の救助はやめておく程度だ」ジュール・ルナール


<蛇足の蛇足>
▼一応『エントリの信頼性・客観性を読み手に疑わせる10の禁じ手 - 馬の気持ちはわからない(『傍観罪で終身刑』改メ)』の続きあるいは補足という位置づけのエントリになるのかもしれません。そうはなっていないのかもしれません。どちらでもいいことでしょう。
 ちなみに併記した警句の全ては、『世界毒舌大辞典』(大修館書店)から引用したものです(書評はこちらあたりをどうぞ)。こういうものをネタ本にしてる時点でどうかという感じの上に、書名のリンク先はアソシエイトID付きのAmazon商品情報です。要するに、「この本を買ってくれ」という記事だと把握していただければいいのではないかと思います。