馬の気持ちはわからない(一口馬主遺産)

『馬の気持ちはわからない(『傍観罪で終身刑』改メ)』(http://d.hatena.ne.jp/Southend/)の移転先にして遺跡です

エンドオブライフとアフターオブライフ、または文化と倫理について

*シンコウフォレストを悼む。 - 殿下執務室2.0 β1
▼まず、エントリ全体としては納得でき、共感もできる記事であることを前置いた上で。

この件について我々が*ファーディナンドを思い起こすならば、恐らくアメリカ人は「お前らと一緒にするな」というのは間違いないだろうし、それは不本意ながらもある程度正当ではある。それは、詰まるところ*ファーディナンドの最期が「Slaughterhorse=屠殺」である、という点に帰するだろう。要するに、その辺りの「死に方の問題」みたいな部分の違いは小さいようで大きいものはある。

この部分については確かにその通りでしょう。ただ、そこに続く

これに関しては、捕鯨のケースなどを考えれば明らかだろう。例えば我々からすれば、西洋人が油だけ取ってあとは全部捨てるような形で鯨肉を扱うのに対して、ヒゲ一本まできっちり使い切る本朝の扱いの方が余程「丁重に」クジラを扱っている、という自負があると思うのだが、こんな話を南半球の野蛮人に言っても通用するものではなく、奴等からすれば「どんな殺し方でも、殺すのは一緒」なのである。その辺りの峻別が本朝では可能であるのに南半球の流刑民の子孫が解せないのは、奴等に「捕鯨の文化がない」からにほかならない。詰まるところ、それと同様に、「殺すならどちらも一緒だ!」と言ってしまった瞬間、我々は己の競馬文化の程度の低さを世界に晒すだけなのである。

この捕鯨の喩えがよくわかりませんでした。「殺し方」の問題と「その動物の(生命そのものを含めた)扱い方」の問題が混同されてるような。個人的には前者が<倫理>、後者が<文化>の範疇に、それぞれ大きく足を踏み入れている問題だ思うのですが(もちろん重複する部分もあるでしょうけど)。
 捕鯨の方法論で言うなら、大砲で銛を撃って殺すという行為だけ見れば、倫理(感情)的には残酷としか表現しようがない。つまり、漁法の伝統的価値だけをもって、捕鯨文化非保持国に対し文化と強弁するのは無理がある。そこを了解させるために、<殺す理由><殺す方法>に対して「あくまで必要(文化的利用)に供するため」という免罪符を用意する・・・・・・という流れになるでしょう(それさえも通用しないから困ってるわけですが)。


▼まぁ、そこは関連はしたとしても本筋とは少し離れるので措くとしましょう。では仮に、<文化>という文脈における捕鯨問題のスキーム自体を競走馬について適用するとどうなるでしょうか。
 その前に確認しておきますが、<競走馬>の生命については「<現役(競走・繁殖馬)としての経済的・文化的存在価値>を担保にして承認される」というのは基本的な認識でしょう。つまり鯨は死後に、一方競走馬は生前にこそ、その文化的価値を見出されているわけです。この差異を前提にして考えてみましょう。
 まず、その差異を単なる裏表の差ということで、「丁重に扱う分には、捕鯨文化に供されるための鯨は(種の存続に支障が無い範囲で)殺してもいい」という論理をそのまま援用する場合。それで主張できるのは、「丁重に扱う分には、競馬文化に供されるための馬は競馬のために産まれて/生きていい」というところまででしょう。つまり、<文化的資源としての鯨>と同様に<競走馬>としての文化的アイデンティティをどれだけはっきりさせたとしても、その中に引退馬、つまり競走馬でなくなった馬の余生を保障する根拠はない。
 では、殺すか生かすかという点で差異は大きく、そのベクトルの方をしっかり合わせるべきだとみなす場合、同じロジックはどう援用できるでしょう。それは、「競馬文化に供することができなくなった馬は殺してもいい」という帰結になりはしませんでしょうか。
 ・・・・・・などとやくたいもないことを書いてみたものの、その辺の論理展開が正しいかどうかは実のところあまり関係なかったりします。第一野生動物と家畜というだけでも相当な齟齬があるでしょうし。では、結局のところなにが言いたいか。それは、もし文化と生命(倫理)の関係性を厳密に適用するのであれば、捕鯨にしろ競馬にしろ、究極的に動物愛護問題における<文化的価値>と<生命的価値>というのは乖離した概念ではないか、ということです。
 要するに、競走馬が競走馬(や繁殖馬)でなくなった後について、運良く実用(乗馬など)や愛玩用(功労馬に対する牧場や馬主の感情的保護)にそのアイデンティティをスライドできた馬を除き、<文化的価値>というフレームワークだけでは実質的に馬の生命を(最後まで)守りえない。それどころか、「馬を屠殺して食用に供するのも<文化>だ」という反論を許すことにもなりかねないでしょう。もしどうしても<文化>という方法論を用いてトータルライフ的に馬をアジールに招き入れようとするのであれば、それこそ「ヒンズー教における牛」としてその種を位置づけるしかない。それは最早、<競馬文化>という範疇からは逸脱した問題のような気がします。
 そういう意味で、今回の件に捕鯨文化問題を比喩としてでも持ち出すのは、(殿下の意図が奈辺にあるかは別にしても)色々と誤解を招きかねないのではないかなぁと・・・・・・“南半球の野蛮人”という表現も含めて。上記のように文化という枠組みで競走馬のQOLを十全に保護するのは難しいと思う、というのが僕の見解ですが、それ以前に、捕鯨という<文化>を万人に(当然“野蛮人”だけでなく日本人も含め)尊重させられないのに、競馬という<文化>は果たしてそれができるのでしょうか?


 揚げ足取りのように思われるかもしれませんが自分としてはそうではないつもりで、つまり「全ての生産馬の生命を全うさせる」ことが事実上不可能な以上、<文化>という切り口から動物愛護問題を語るのは、それ自体が陥穽になりかねない、という話です。


▼では、どうすればいいか。個人的には、ガトーさん@馬耳東風が書かれているように

国内では競馬産業のイメージを守るためか、引退馬の処分問題がメディアに取り上げられることは少ない。そのため、苦痛を最小限度にした処分方法が採られているかといった議論まで、とても踏み込めていない。そうした意味においては、ラスバリースタッドのように自らの管理下において適切な方法で処分したと公言できるならば、食肉業者にすべてを委ねてしまう日本式よりは責任ある行動を取っているとも言えよう。もちろん、経済動物の名のもとに、サラブレッドが大量処分される競馬産業の論理を認める人々の間のことではあるが。

シンコウフォレスト安楽死 割り切れぬ感情こそ大切に: 競馬ブログ オケラセラ

という一種の諦観(悪い意味ではなく)に立った上で、

処分は競馬を続ける上での運命と、突き放すだけが最善ではないだろう。一例だが、重賞賞金の一部は余生のために支払うようにするとか、種牡馬シンジケートの数パーセントは解散後のためにプールしておくとか、多額の利益を生んだ馬が余生を過ごせる施策が採られても良いのではないか。

シンコウフォレスト安楽死 割り切れぬ感情こそ大切に: 競馬ブログ オケラセラ

というプラグマティックな方法論、つまり文化でも、もちろん個人の善意や愛情ではなく、業界全体の(主に経済的な)システムとしての保護策を推し進めていくというのが、言葉は悪いですが妥当な落とし所ではないのかなぁと思います。換言すれば、全ては無理でも一定数の功労馬にどうにかして生命体としての所与の寿命を全うさせる(しかもQOL的に問題ないレベルで)ためには、そのサラブレッドの現役時代の文化的・経済的価値を原資にして、それを制度的な「馬の余生の承認」に転化する枠組みが必要だ、ということになるかと。あとはその保護的な方向性に沿った上で、線引き論的あるいは方法論的に詰めていくしかない。それによって、マスとしての競馬関係者(ファン含む)の感情的な波立ちをせめて細波程度に抑えることが、現状で望みうる精一杯なのではないかと思います。
 繰り返しになりますが、これはもう単なる「文化的な豊穣さ」というレベルに収まる話ではないんじゃないか、と思います。というかむしろ、文化云々というレイヤにその議論を落とし込むと、それこそ捕鯨問題のような水掛け論に陥りかねないかと。


▼その上で、やむをえず処分しなければならない馬の「殺し方」を倫理的に忖度するだけの余裕なり土壌なりが全体的に涵養されていけば、もちろんそれに越したことはないでしょう。というか、その部分については既に、

第4章 雑則

(動物を殺す場合の方法)

第23条 動物を殺さなければならない場合には、できる限りその動物に苦痛を与えない方法によつてしなければならない。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S48/S48HO105.html

という形で法制化されているわけでいるわけですから、建前上は最早「殺し方」は論点にすらなりえない。あとは運用側の人間の意識、またそれを取り巻く業界全体の「空気」の問題になってくる話だと思います。
 しかし、実際「屠殺」の現場を見る、あるいはその従事者の話を聞くというのは色々と難しそうです。ましてや、それを公に向けてレポートするのは、相当の覚悟が必要でしょう。その意味で、ガトーさんの“すべて白日の下に晒す必要はない”という認識は、至極もっともではないかと。もちろん議論は尽くした上での話になるのでしょうけど。


<関連>
http://www.b-t-c.or.jp/btc_p500/p500_02.html
▼もちろんこうした形で既に保護策は制度化されているわけですが、例えば海外に出た活躍馬の実際的なフォローという観点については、殿下曰く“シンコウフォレストのような素材がなければ我々が気づくことすら出来なかった”部分ではあるかなぁと。ハットトリックはじめ最近海外への血統輸出のケースは少なくないだけに、「どこまで守るか」の線引き論において、海を渡った日本馬についてもカバーしなければならないアジェンダであることは間違いないでしょう。