馬の気持ちはわからない(一口馬主遺産)

『馬の気持ちはわからない(『傍観罪で終身刑』改メ)』(http://d.hatena.ne.jp/Southend/)の移転先にして遺跡です

「人型」という幻想

http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2008/02/post_599.html

ガンダム」とか「宇宙戦艦ヤマト」みたいなプロトタイプには、本当は勝たせちゃいけないんだと思う。 全人類の期待を一身に背負ったプロトタイプは、性能が劣った敵側の量産品に 囲まれて、そのうち故障が頻発して、部品が足りなくなって、結局人類滅亡するのが正しいはず。

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▼エントリの本筋ではない部分でしょうけど、あまりにキャッチーな指摘だったのでちょっと反応、というかそれを取っ掛かりにして勝手に妄想。

 ヤマトはほとんど知りませんし、ガンダムについても非常に曖昧な記憶しかないので細部については自信がありません。が、なにしろガンダムのように「ニュータイプ」なる一種の超能力者が実在する、という世界観であれば、“プロトタイプ幻想”は必ずしも幻想ではないように思います。常人では使いこなせないほどピーキーな、あるいはトリッキーな機体であっても、その性能を十全に発揮できるような特殊な人間が存在する限り*1、少なくとも、極少数のカスタムメイドが大多数のレディメイドを凌駕するという状況には、ドラマツルギーの域を超えた必然性が見出せるのではないかと。

 例えば初期ガンダムという“プロトタイプ”(「試作機」というより「実験機」というニュアンスの機体だという話ですが)は、偶々アムロという「一番うまく使える」パイロットと出会ったがゆえにエース機として華々しく(そして未完成なまま)表舞台に上がったのであり、そうでなければ単なるプロトタイプとしての使命を全うし、後世一部の軍事マニアの記憶と記録に残るだけの存在となったのではないかと。

 しかし、「ニュータイプ」という桁外れに優れたソフトウェアが厳然としてそこにある、という前提があれば、そういった偶発的な出会いがあろうがなかろうが、いずれ技術はそれを元にした発達の仕方を始めるでしょう。具体的には、フラナガン機関のような所謂「ニュータイプ研究所」が設立され、サイコミュのような「量産型にはならないが限られた条件下においては汎用性がある」技術が登場し、個々のパイロットの適性・能力に合わせた「ニュータイプ専用機」がカスタムメイドされ続ける・・・・・・といった、ソフトウェアに引っ張られる形での、ある種奇形的な技術革新がなされうる、ということです。

 高度化した戦争の道具として最も量産が困難なものはなにかといえば、それは「(兵器の)操縦士」でしょう*2。しかも戦争という特殊技能に通じた「熟練兵」となれば、単純に多くコストを掛ければ育つというものではありません。

 であるならば、極端な多方面作戦を強いられる状況でない限り、量的には限定されていても明らかな性能的アドバンテージを持つニュータイプ専用兵器を作戦行動の軸とし、オールドタイプはそのバックアップに徹する戦略が最も理に適っている・・・・・・という考え方もできそうです(戦力比にもよるでしょうけど)。「非量産型兵器<だけ>で量産型に勝つ」というのはナンセンスにしても、「非量産型兵器の効果的運用」という手法はあながち的外れでもないのでは、と。もっとも作品世界では、「強化人間」すなわち「ニュータイプの量産化」という方向に流れて色々と失敗する、というオチがついてたりもするわけですが。


▼まぁそんなわけで、もし現実世界と仮想世界において共通する幻想をガンダムから見出すとすれば、それは“プロトタイプ幻想”というより、散々語られてきたことですが「人型幻想」、もっと普遍化すれば「個としての人が積極的に介在しなければならないという幻想」ではないか、と思います。まぁこれは、魅力的なお話として成立するための要求から来る必要悪だとは思いますが。

 単純に兵器として考えれば、そもそもモビルスーツが人型でなければならない必然性は、中に人間が乗り、その人間の感覚的な面に大きく依拠して操作されるという前提がなければ皆無と言って差し支えないはずです。「ロボット」ではなく「パワードスーツ」であるがゆえに、機械でありながら人としての限界を超克できないという構造的不備。例えば「空中(宙空)での戦闘行動」を前提とするならエルメスのような形態が最適化されたものでしょうし、陸上行動用であれば多くのマニピュレータを持つ多腕多足形態(大雑把なイメージとしては『パトレイバー』に登場して「タカアシガニ」と呼ばれていたような)が理にかなっているように思います。

 また、どうせコックピットが完全密閉型であるなら、いっそ遠隔操作という設計思想を追求するのが理に適っているかと。通信のタイムラグというデメリットは、中に生体がいないことによる機動性の向上と人命資源の保護というメリットで十分埋められるはず。もっとも作品世界では、ミノフスキー粒子という絶対的な通信妨害要素によって実現困難な設計ではありますが、そうしたECMサイコミュによって超克する、という流れにもなっていたようですし。それを突き詰めれば、人を介さない「自動(機械の自律行動)化」最強、という方向に自然となっていくでしょう。

 にも関わらず、ガンダムは「人型」、もっと言えば「肥大化した個の投影」というくびきから脱し得ません。状況判断&行動決定機能、すなわち大脳や、制御系、すなわち小脳・神経にあたる部分(という定義でいいのか分かりませんが)の多くを、「人間」という(一定の補充は容易でも)量産や完全な代替が困難なマテリアルに依拠する・・・・・・という設計思想を捨てられない*3その点が、一種の限界であり、幻想であると言えるのではないでしょうか。もし「ニュータイプが乗る専用機」が屈するとすれば、それは「一般人が乗る量産機」ではなく「無人の量産機」ではないかという気がします。

 そしてそれは、ニュータイプなる飛び抜けた(状況の大勢を左右するほど)素質を持つ人間がなかなかいない現実世界であっても、同じように敷衍できる話なのではないかな、と。



▼ちなみにそのエントリの本題である医療問題については、ガンダムどころじゃなく門外漢もいいとこなのでそうそう語れやしませんが、もしその「幻想」を、同じく医療現場の諸問題に繋げるとどうなるか・・・・・・と素人ながら考えていくと、結局

無脳化した、現場の判断を放棄した医療というのは、 だから自分の身体に対して自覚的な人が得をして、 無自覚な人が損をする構造が実装できる。今は全く逆。 身体に無自覚で、声が大きな人が、 現場の限られたりソースを総取りしてしまう。

診療手順を全て公開すれば、たとえば医療機関を意のままに動かしてみたり、 あまつさえ「医療機関に自殺の手伝いをさせる」なんてことすら可能になるんだろうけれど、 それでいいんだと思う。我々はしょせん道具であって、お金を払うのは 病院に来る患者さんなのだから。

医学的には、そんなことは正しくないんだけれど、 無脳化した現場、「患者さんの声」駆動型の組織というのは、あらゆる人に対して 門戸を開いた組織が最後にたどり着く先として、必然なのだと思う。

http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/archives/2008/02/post_599.html

というのと同じような結論になる気がします。例えば以下のような感じで。

 ・・・・・・医療における「人型幻想」のなにが問題かというと、要するに判断・制御系としてのソフトウェアと、その実現のための手足となるハードウェアは相互依存関係にあるものの、実はかなりのレベルで分業(分離)可能であるにもかかわらず、医療現場においてはその両者を医師個人が絶対的に兼ねなければならない(=個の能力に依拠しすぎている)、という点ではないかと思っています。具体的に言えば、医療行為の単純労働としての側面(例えば当直)に、高い専門性を持つ医師という人間のリソースを消耗させられてしまっている、という。まさにそこが、現在の医療の疲弊と不安定性の大きな要因なのでは、と。

 『その数学が戦略を決める』という本にこんな話が紹介されていました(といっても書籍自体が手元に今ないのでうろ覚えですが)。

【免疫系の難病を患っていると思われる患者について、当直医や病院職員が病名を特定しようと議論を交わしたが、一向に結論が出ない。
 そこで、ある研修医に意見を求めると、少しその場を離れてすぐ戻ってきたその研修医は、あっさりとある病名を挙げた。それは症例としてはかなり希少だったが、患者の症状には相当部分で合致し、かなり蓋然性が高い診断だと思われた。
 驚いた医師がその研修医に診断の根拠を尋ねたところ、

「症状を入れてググッたら出てきましたよ」

という返事で呆然とした・・・・・・。】

 まぁこれは極端な例かもしれませんが、診断の「マニュアル化」の徹底(もしくはいっそ外部データベースへのアウトソーシング)を実現し、現場の医師は接遇と情報の出入力、そして一部のタイトロープな意思決定や、容易に代替できない手技の実施のためのインターフェースとして特化する、というアイデアは、「(技術的に)枯れた医療現場」というひとつの理想像たりうるのではないかと思います。

 もちろん救急医療のように即応性や柔軟性が要求されたり、ある種の外科的処置のように職人的な手技が要求される局面にはそのまま敷衍できないメソッドかもしれませんが、そうでない診療科にとって、医師の単純労働量、そして「誤診」というポピュラーな医療過誤*4の危険性というのは、システムやテクノロジーによって劇的に軽減できそうな気がします。「医師であるという矜持」や「医師でなければならない(できない)という観念」に縛られず、エビデンスのデジタルな蓄積と、そのデータを現場にフィードバックするための実務的なシステム構築を志向する方が、単純なマンパワーの増加・洗練にコストを掛けるより全体の最適化への近道になるはずでしょう。


▼ただ、そこまで割り切れるような人の割合が(医療者・患者・政治行政関係者問わず)一体どの程度まで増えうるだろう、とは素朴な疑問としてありますが・・・・・・。

*1:余談ですが、モビルスーツ同様人型決戦兵器である、『聖刻』シリーズの「操兵」については、<従兵機→狩猟機→その他上位機種(秘操兵など)>と明確なヒエラルキーがあり、「狩猟機をきちんと操縦できるのは一般人の10人に1人程度」という設定もあったりするようです。ガンダム世界における「プロトタイプ(実験機)」や「ニュータイプ専用機」といった、「非量産型機種」もそれに準ずるものと考えられるでしょう。

*2:そういえば『銀河英雄伝説』でも、パイロット養成所の事故を、コスト面の損失の大きさという観点から嘆く同盟軍人が登場していましたっけ。スパルタニアンなんて、あれだけ技術が発達した未来であれば、真っ先に無人化できそうなものだと思ったものですが。

*3:パトレイバー』においてその(主に)人型重機に「レイバー(Labor・労働者)」という名前が冠されていることはある意味示唆的で、あれは本来土木作業(等)を効率化する、端的に言えば人間の物質的労働を「代替」するはずの存在なわけです。しかし、それを現場で操縦するのは相変わらず旧世紀然(といってもあの作品世界はまだ20世紀ですが)としたブルーカラー、という劇中の描写は、物凄い矛盾・・・・・・で言いすぎなら、技術的な過渡期に表出した違和感だ、と指摘できます。それをきちんと描きつつ、しかもそこに「いずも計画」(≒労働の無人化)というテーゼとそれに反発する労働者という構図を提示してみせたあの作品は、非常に鋭かった気がします。

*4:http://biotodaystats.jcity.com/2006/01/post_69.html