馬の気持ちはわからない(一口馬主遺産)

『馬の気持ちはわからない(『傍観罪で終身刑』改メ)』(http://d.hatena.ne.jp/Southend/)の移転先にして遺跡です

天皇賞・秋(に絡んだ報道などに対する)、雑感。

http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_date1&k=2007102800138
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 怒りをぶちまけたのはコスモバルクに前を2度横切られ3着だったカンパニーの福永。「コスモバルクは毎回、毎回やっている。五十嵐さんはG1に乗る騎手じゃない。(ローカルの)福島にでも行っていればいい。勘弁してくれ」

▼福永の怒りコメントを読んで思い出したのが、村本善之元騎手のルポにあった以下のエピソード。

デビューした年の福永祐一はどんどん勝ち鞍をふやして絶好調だった。だが、その騎乗ぶりはフラフラしていて危ないことが多かった。ある日、レースが終わってから、進路を妨害した福永と、妨害された村本とが裁決室に呼ばれた。そのとき、村本は福永を大声で叱りつけた。
「一人で競馬やってんじゃねえぞ!」
瀬戸際の勝負師』(VIENT発行/現代書館発売・井口民樹著)P170より引用

そうか、福永ももう30歳だもんなぁ、と妙に感慨深くなったというか。いつの間にか言われる立場から言う立場に変わっていたのか、と。なにしろ自分がデビュー当時から騎乗振りを見ている最初の世代の騎手なもので。
 まぁそんな個人的感情は別にしても、中央生え抜きの騎手としてこういうアグレッシブな姿勢はどんどん出していくべきだ、福永よく言った、というのが率直な感想です。地方騎手への排他性という背景はあれど、それを例えば表に出ないところで(喩えるなら「トゥシューズに画鋲」的に)やったり言いがかりをつけたりするならともかく、相手があれだけ明白に乗りへぐったところへ大っぴらにカマしておくのは、態度としても手法としても圧倒的に正しい。むしろあれだけの被害を受けた身でヌルいコメントしか出せないようなら、逆にヘタレなんじゃねーかという気もします。問題視すべきはあくまで制度的な流動性の低さであって、プレイヤー同士が陰湿ではない敵愾心を燃やすのはむしろ歓迎すべきことでは、と。もちろん駆け引きというだけではなく、プロレス的なショーマンシップという側面も含めて。
 福島云々については、まぁ福島に思い入れのある人(騎手なりファンなり)に対して失礼な物言いなのは間違いないでしょうし、例えば後で中舘や木幡あたりに文句言われたら素直に謝っとけよ・・・・・・ってなもんでしょうけど、傍観者としては別に大きな問題がある発言とも思えず。なんというか、「G1の中でもダービーだけは特別」というようなよくある発言と、根としては同じところから出た表現なんじゃないかなぁと。そういうピラミッド型社会の中での有形無形のヒエラルキーというのは絶対的に存在して、その中でローカル競馬にはローカル競馬なりの立ち位置というものがある、という認識は至極当然のことかと。それを思ってても口には出さないのが大人の態度なのかもしれませんけど。



“競馬場通り”の住人:コスモバルクの「斜行」について

――バルクの斜行がエイシンの斜行を引き起こした。
多くの騎手がそう勘違いしても、
おかしくない状況が生まれていたのは間違いない。
また、もちろん二つの斜行が無関係であるとも、
大きな関係があるとも(映像を見る限りは)言い切れない。

▼僕の日本語力が不自由なのかもしれませんが、「二つの斜行が無関係であるとは言い切れない」と自分で書いてるのに、「“バルクの斜行がエイシンの斜行を引き起こした”という“勘違い”」なんて表現を使うのはおかしかないでしょうか。文脈を読むに「多くの騎手がそう思ってもおかしくない」というぐらいのニュアンスなんでしょうけど、このへんの言葉のチョイスに、客観(公平)性を装いながらも明らかにバルク擁護に偏った姿勢が看取できます。

僕の意見をハッキリ言っておけば、
「サンスポ」と「スポニチ」の五十嵐バッシングは明らかにおかしい。
書いた記者は、騎手のコメントをつなぎあわせただけで、
自らによるレースの検証を怠っているのではないか。

▼これも同じく。「映像を見る限りどちらとも言い切れない」ような事象について、自身の目よりも当事者や関係者の認識を優先して記事を作ることが、そんなにおかしな姿勢でしょうか? と、これはスポーツ紙の当該記事を読んでないのでそれぐらいのことしか言えませんが。


▼ま、いつも通りの河村クオリティ、ということで。ああいう立場の人ですから、ビッグレッド寄りの見解を示すことは当然ですし、それを否定する気もありませんけど・・・・・・。