馬の気持ちはわからない(一口馬主遺産)

『馬の気持ちはわからない(『傍観罪で終身刑』改メ)』(http://d.hatena.ne.jp/Southend/)の移転先にして遺跡です

優雅で感傷的な日本競馬

rocky 競馬 情緒的なものを抑えられてる人は競馬が娯楽以上のものになってる人なのかな?もう済んだ話みたいな感じは息苦しいが。


goldhead 競馬 自分も自分の中の競馬をほじくりかえしても情緒と感傷ばかり出てくるし、頭で馬主や生産者、業界側の事情を斟酌しても、あえて一ファンがそれを内面化しすぎる必要もないと考える。


toronei 競馬 究極的にはファンは情緒だけで物言って良いとは思う。

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/gms/20091117/p1

▼ということらしいので、自分の中の「まだ済んでいない」「ファンの情緒」を「業界側に斟酌することなく」言語化してみました。


追憶1・バントラインのこと

バントライン、という馬がいました。2000年2月25日生まれ、今も生きていれば9歳ということになります。父はSeeking the Gold、母の父はStorm Birdという血統、要するにバリバリのアメリカン。2歳の夏にファンタストクラブへ見学に行った時に見た彼の馬体は、まさしくその血統にふさわしいもので、初めてアメフトのプロ選手を間近で見た、ぐらいのカルチャーショックがあったものです。
 バントライン、という馬名に決まった時は、正直あまりピンときませんでした。自分の観測範囲での感想も、「バント」という文字列が入るせいか、「なんだか大物感に欠ける」というものが多かった気がします。由来は、「バントライン・スペシャル」という西部開拓時代の銃の名前で、つまりは父や*フォーティナイナーや*マイニングといったあたりでお馴染みの、由緒ある「ゴールドラッシュ馬名」の系譜に連なるもの。それが分かった時には、結構この名前も好きになれたような記憶があります。この馬のことを他の人に話すと、決まって筋少の『サボテンとバントライン』を持ち出されるのには閉口しましたが。


 デビュー戦は、2003年2月1日、淀。忘れもしません、僕が一口馬主を始めて、初めて目の前で出資馬の勝利を見届けた日です。しかも現地にはたくさんの出資者さんたちが集まっており、バントラインがオリビエ・ペリエを背に2着に3馬身差を付けてゴール板を駆け抜けた瞬間、いい年をした紳士淑女たちが、小躍りしながら手を取り合っていたことを思い出します。冬の寒さもまるで気にならず、ただただ、競馬にこんな世界が、こんな感動があったのだ、とそればかりを考えていました。


 しかしその後のキャリアは、その場にいた出資者たちが夢想したものとは遠くかけ離れたものでした。ペリエデザーモといった世界的な名手を背にしながら、断然の1番人気を裏切り続けて飽きるほど3着を繰り返す姿に溜息ばかり。3歳の夏には「藤澤和厩舎に武豊が乗る」とニュースにもなっておいて5着敗退、そうこうしているうちに骨折で長期休養を余儀なくされました。
 10カ月後の復帰戦、なぜか藤澤和師は芝のレースをチョイス。後方からの競馬ながら3着に入り能力の高さを見せるも、またも(剥離)骨折、再び10カ月の休養。やっとの思いで帰ってきたと思いきや、またも芝にこだわり2戦連続12着という屈辱の結果。ここでようやくダートに戻してなんとか2勝目を挙げるも、次走はまた芝に戻して完敗。引っ掛かりまくり直線もがくバントラインの姿に目を覆ったのは、おそらく僕だけではなかったでしょう。
 ようやく懲りたのか、次走は東京のダート1300mをチョイス。ここで彼は、これまでにないパフォーマンスを見せます。終始抜群の手応えのまま、しかも気負うことなく馬群の中団を追走すると、4角からは軽く仕掛けた程度で先行集団を射程に捉え、残り300mで鞭が入るや否や鋭く反応して一気に先頭に立つと、そのまま危なげなく完勝。
 と、ここで藤澤和厩舎の真骨頂が出ます。放牧、そして去勢。その選択だけでも愕然としたものですが、それはそれとして、当然のように長期休養を覚悟しました。ところが3ヶ月後、それをも裏切られる急遽の帰厩。そして……その約1カ月後、復帰戦直前の調教中、鼻(肺)出血を発症し登録抹消。


 その肺出血が人災なのではないかという点は、その時このブログで指摘しましたが、しかしそれは証明する術もありません。ただ、ダートの1300mを完勝した時に痛感したことがあります。生き物である馬には当然”旬”と“天分”があるはずですが、この厩舎は「馬優先」の名の下に、バントラインの持つそれらをことごとく裏切り続けてきたのだ、と。咲くはずだった花も実るはずだった実も、その殆どを腐らせ果ててしまったのだ、と。
 これがもし、早い段階からダートの短距離に絞って使い続けていたらどうだったでしょうか。もしかしたら、血統通りの一本調子な早熟馬として終わっていたかもしれません。しかし、自分の中ではどうしても、「角を矯めて牛を殺」してしまったのではないかという気持ちが消えないのです。


 だから僕は、その後二度とこの厩舎の馬に出資しないでおこうと誓い、そして実行しました。それは誰に理解してもらう必要もない、理屈でもない、僕だけの決断であり、感情です。


追憶2・メテオグローリーのこと

メテオグローリー、という馬がいました。2002年4月17日生まれ、その血統は、父が“The Iron Horse”Giant's Causeway、母はサンタマリアH勝ち馬Race the Wild Wind、兄にモーリスドゲスト賞勝ち馬King Charlemagne、という絢爛たるもの。また、血統だけでなくその雄大な馬体も瞠目すべき代物で、パンフの募集写真を見た僕は、一目で魅入られてしまいました。この馬はG1を勝ち、そして種牡馬としてその類稀なる血を残すことになるだろう、と、結構本気で思いました。


 ところが、その期待はいきなりから失望に変わります。3歳2月、デビューを目前にしてトレセンで転倒、尾骨部の骨折で全治3カ月。8月に一旦入厩まで漕ぎ着けるも、トモに疲れが出て再び放牧。結局未勝利戦が終わるまでのデビューは叶いませんでした。
 再ファンドを前提に名古屋でデビューも、2戦して3→2着。その後連勝するも、結局復帰条件となる2勝を挙げるのに4戦かかり、中央でのデビュー戦は4歳3月。また、そこからも二度足踏みし、ようやく中央初勝利を挙げたのが4歳5月の新潟。次走、単勝1.6倍に支持された東京の同条件も6着に敗れ、休養に入ります。
 しかし、この休養期間中にようやく恵まれた体に中身が伴ってきたのか、デビュー以来最高体重となる562キロで出走した休み明けの札幌戦を塚田騎手で快勝。いよいよその素質に見合った走りができるようになってきた、と小躍りしたものです。
 でも、噛み合い始めた歯車はまた狂い出します。ここで藤澤和師は、道新スポーツ杯への連闘を敢行。結果としては、小回りの札幌では誰がどう見てもセーフティ、というリードを直線で奪ったビッグクラウンを、地響きが聞こえてくるような豪脚でハナ差捉えたところがゴール。しかしこの激走のツケが、彼のその後の競走人生を黄昏に向かわせます。
 レース後すぐ放牧されるも、蕁麻疹が出るなど反動の気配を見せます。結局帰厩は、脚質的にベストマッチと思える年内の東京開催にギリギリ間に合わない11月中旬。そして、さらなる疑問手が打たれます。復帰戦として選ばれたのは、中山のダート1800mではなく、なぜか阪神のダート2000m(しかも、なぜか中山芝との両天秤という迷走ぶり)。新設されたばかりの条件だっただけに判断がつかなかったのかもしれませんが、この条件は、コース形態からは必然、現在では常識の先行馬天国。逃げた馬が5馬身ちぎり、番手の馬が2着に粘る行った行ったでは、なす術もありませんでした。輸送か調整ミスか、大幅に馬体を減らしていたのも堪えたでしょう。どちらにせよ、素直に中山をチョイスしておけば……と考えざるをえない結果でした。
 しかも泣きっ面に蜂とはこのこと、レース中に捻ったことで左前の球節に腫れ。1週間後の放牧先での診断結果は「腫れも引いたので問題なし」のはずが……さらに翌週には「捻挫の症状が抜けず」。そのままずるずると、長期休養に入ってしまいます。
 球節の状態がようやく落ち着いたのは、結局春も終わりの頃でした。そこからじっくりじっくり乗りこんで、10月にやっと帰厩。そこで待ち受けていたのは……。


……この時の絶望感が、どれだけのものだったか。長い時間かけて積み重ねてきたものを、一瞬にして壊すだけの簡単なお仕事。


 一体、藤澤和雄とは何者なのか? これだけの素質を持った馬を、こんな明らかな人災で大成させられずに、なにが名伯楽でしょう。こうした良血馬の屍山血河の上に築いた栄光に、一体何の価値があるというんでしょうか?


 メテオグローリーは今、どうやら東農工大馬術部で乗馬として活躍しているようです。それはひとつの慰めになることではありますが、種牡馬としての彼の可能性を考えれば、今の境遇を嘆かざるをえません。
 恵まれた馬格、溢れ出るパワー、そして輝くような血統。これだけの馬を日本に持ってきたからには、競走で結果を出すのは当然、その血を後世に残すところまで運んでようやく、この馬に関わったホースマンたちは最低限の仕事をしたと言えるのではないでしょうか?
 交流G1を7勝したあのブルーコンコルドでさえ種牡馬になれない今の馬産界……とはいえ僕自身は、今フラットな条件(繋用先や種付条件等)でこの2頭を種牡馬にできたとしたら、人気を集めるのも、結果を出すのも、間違いなくメテオグローリーの方だと思っています。ヴァーミリアンにほとんど先着できず、カネヒキリに至ってはその影さえ踏めなかったブルーコンコルドよりも、人災によって全く底を見せないまま競馬場を去ったメテオグローリーの方が、血統面の圧倒的なアドバンテージを考慮しても種牡馬としての期待値は明らかに高いはずです。


 これだけの馬を大成させられなかったトップトレーナー、これだけの馬を種牡馬入りさせられなかったクラブ、これだけの馬を正しく評価できなかった馬産家たち、そのすべてをひっくるめて、この国の競馬とは……一体なんなんでしょうか?



▼……さて、いかがでしょうか。以上の文章がどれだけ僕の中での「真実」に近いかは、想像にお任せします。というか、僕にも正直分かりません。本音のような気もしますし、嘘だらけのような気もします。
 ただ言えるのは、

  • 言葉は自分の内面から放たれた時点で自分だけのものではなくなること
  • 「ファン」であることが<情緒的>であることの免罪符になるのであれば、全く等価に、「関係者」であることが<打算的>であることの免罪符になる、ということ
    • それを是とするのであれば、少なくとも僕ならば、競馬に、競馬人に対して、一切の批判的言動ができなくなるでしょう
  • この2頭の馬に関するふたつの独白は、どう考えても息苦しいこと
    • 単に文章力の問題かもしれませんが……
  • この『追憶1』という文章と『追憶2』という文章は、自分の中では同じ情緒から始まりながら、全く対照的な姿勢で書いていること
    • 確かにそうかも、と思った人は、この冗長な文をまともに読んでくれた人なのでありがとうございます

といったあたりでしょうか。


▼先日のエントリのコメント欄で、僕はこう書きました。

ちなみに僕は、「諸君らが愛してくれたガルマ・ザビは死んだ、何故だ!」と呼びかけられたら、
常に「坊やだからさ」と返したい、と思っています。

http://d.hatena.ne.jp/Southend/20091113/p1#c

人の死を心底嘆く情緒的な自分、人の死を煽動の材料にしようとする打算的な自分、人の死に対し斜に構える理性的な自分……。その全てがひとつの人間の中にいて、なにか不思議があるでしょうか。誰にだって(当然僕にだって)情緒はあります。ただ僕は、「表に出す」自分を理性的な自分に(なるべく)しようと決めているだけです。それが物言う自分にとって最低限の「節度」だと考えているので。もし僕が競馬に対して情緒に乏しい(または情緒そのものの発露に対して抑圧的だ)と考えている人がいるなら、それは大きな意味での誤読、あるいは想像力の欠如だと思います。


 えっと……なにが言いたかったんでしょうか。そもそも言いたかったことなんて、あったのかなかったのか、今はもう分かりません。と、現在表に出ている自分はそう思っています。

もともと、個人の中には、いろいろな人格が存在するんじゃないかな……。そんなことはない、という人もいるかもしれないが、少なくとも、僕は……、僕の中には、結構、沢山の人格がいるね。僕の個人的な意見として、人間って、単一人格者の方が少ないと思っている……
『すべてがFになる』